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「流言・投書の太平洋戦争 講談社学術文庫」川島高峰・著

 第二次世界大戦の戦時下、政治家や天皇など偉い人達が何を考え何をしていたか、そういうことを研究した本はいっぱいあるだろう。また、軍隊がどう闘ってどうなったか、そういう記録も調べればいくらも出てくるだろう。“歴史”と呼ばれる物語は、往々にしてそのような、大まかなコマしか描かない傾向がある。しかし、「銃後」と呼ばれたいわゆる一般民衆の心情が、どのようなもので、それが戦況の変化にともなってどう変わっていったのか、きちんと研究した本はあまり出ていないのではないか。
 この本は、当時の諜報機関(公安警察や憲兵隊など)の記録から、民衆が何を感じ何を考えていたのかその実際を、時間軸に沿ってまとめたものだ。もちろん、民衆の平均的な思いを知るために、補足の資料も使って考察を加えている。
 僕は、視点が面白いと思ってこの本を手にした。
 だって教科書やドラマを見ていると、戦前と戦後の日本が原爆や玉音放送を境に、がらっと変わってしまったという大雑把なイメージしか描けないではないか。むしろ権力者たちにとってこそ、国の風景は180度の転回をしたのだろうと思う。
むろん民衆にとっても、それは重なるところがある。だが、明日のお米を心配し、今日眠る場所の確保に走り回っていた人々にとっては、ある意味必死の日常が続いていただけとも言える。また運よく直接の戦禍というべきものに、さほどみまわれなかった人々にとっても、戦前と戦後の“生きて行く毎日”という意味での連続性は、ごく普通にあったに違いない。要するに、戦前と戦後に歴史を分けたとしても、それは後世からの視点であって、実際に、ある瞬間から人間性や文化がブツッと途切れて急に変わる、なんてことはないはずだ。軍国教育を受けて完全に洗脳されていた少年少女も、驚いたのか、虚脱したのか、ほっとしたのか分からないが、生身の人間として連続した命を生き、その中で徐々に、変わるところは変わっていったはずだ。
 どうも日本では、そのあたりの研究も考察も十分でない気がする。だから“一億総懺悔“なんて言う曖昧な気分のまま、だらだらと戦後意識が現在でも消化しきれず、地に足着かず、方向性を定められないでいるような気がしてならない。簡単に言えば、きちんとした総括ができていないから先へも進めない、ということだ。
 というように、歴史の知識が十分でない自分にとっては、あちこち教わることが多かった。この本を読むと、戦前・戦時下の日本人と今の日本人の、違いも分かるが共通点も分かる。案外、変わっていないということに、もっと多くの人が驚いてもいいのじゃないだろうか。責任の有無、という言葉もあるが、戦争責任は有るか無いかではなく、どこまでどういう面で責任があったか、程度も種類も皆違うと思うのだ。その意味で、誰もが納得行く戦争責任の総括は、まだこの国では行なわれていないように思う。
 いくつか印象に残ったことを、僕の感想とともに挙げておこう。歴史を良く知る人には、「当たり前だ」と叱られそうだが、このレベルのことからも認識を改めないことには、本当の総括にはまるで届かないことだろう。
・太平洋戦争は、それまで日本が行なっていた対中国の戦争(いや侵略?――“十五年戦争”という言い方もある)に重なる形で起こされた。だから当時の常識的な感覚では、戦争が始まったというより、もう長く始まっていたものが、ついに本格的に拡大したという感じだったらしい。ちなみに、戦後、講和条約締結時の相手国に中国も入っており、太平洋戦争はただアメリカに負けただけでなく、正しくはその他連合国や、ソ連、中国に対しても敗戦したものである。このことを認識している日本人は少ない。(僕も分かってなかった。)
・ほとんど“精神力“しか日本に勝ち目がなかったのは、今となっては多くの情報から明らかなのだが、決して当時の軍部や翼賛的な右翼だけが信じていたわけではなく、民衆こそ国体(国家神道という新興宗教と言いかえても良い)を信じきっていたのも事実のようだ。その意味で、日本人は、今の北朝鮮民衆のメンタリティーを笑うことはできない。国家による洗脳とはそれほど効果的なものなのだと思う。
・戦後左翼を中心とした「戦争はいけない」という抽象的平和論も、新たな都市部新保守系のいわゆる“自虐史観”という見方も、現代の戦争論はどちらも何かをハズシテいる。たしかに無謀な侵略戦争を行なった反省は必要だ。しかし、当時の民衆の気持ちの中には“聖戦意識”(=この戦争には正当性がある、という気持ち)が確かにあったのだ。事実をふりかえれば、この聖戦意識など、言論統制的な戦略にまみれた嘘だらけのフィクションであったにせよ、少なくとも民衆はそう信じていたということは(今後の反省のポイントを押さえておく意味でも)、もっと把握される必要がある。西洋列強に植民地化されていくアジアを、日本の力で守ろう、解放しよう、という正義感めいたものが、あるにはあったのだ。事実はただの侵略戦争だったにしても、そのような思いを抱いて自ら死んでいった人達を、どのような視線で見つめるのか、という問題が解決されていないのだ。
・大本営の国家犯罪的情報操作は、誰もが知っていることだが、英語の新聞雑誌などが読める層や、軍部の情報が把握できる位置に居た人などは、その操作に完全には乗せられなかった(=知っている人は知っていた)。しかし、戦時下の耐乏生活への不満がどんなに高まっても、ほとんど体制転換への要望は民衆の中から起こらなかった。むしろ、利権を持つ官僚/警察/軍部とその関係者vs一般人、あるいは都市部住民vs郡部の住民(食料問題などから)、という形で、様々に日本人は分断され、お互いの足をひっぱり、いがみ合っていたらしい。餓死もありうる極限的な状況下では仕方がないとはいえ、これらの事実は、戦後も含めた日本の民度の低さを表すと思われる。変わらないのは、何よりここではないか。
 その他もろもろ、参考になったことは多いが、目先のことしか考えず、表面的な情報にふりまわされ、何が起こっているか総合的に見る視点を欠き、利権に擦り寄ることを身上とする、そういう言い方をすれば、これは現代の日本人にもぴったり当てはまる。
 本当に反省するならば、良かったことも、悪かったことも、事実に沿って反省しなければならない。そして、過去から学ぶことで、少しだけでいいから賢くならないことには、またぞろ同じことのくり返しだ。今、正にそうなっている。――本書を読んで、一番思ったことだ。
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