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●「地球交響曲 第6番」の視野欠損

「地球交響楽」は「ガイア・シンフォニー」というタイトル(英語タイトル?)も付いていて、今回6作目。今回('06年11月30日)、初めてこの映画を見たきっかけは、チケットを友人のMくん御夫妻にいただいたことだった(ありがとう!)。平日5時からの上映という時間帯に来れる人は、人種的にどんな人たちなのか?と、少々気になったが、まあそれはいいや、自分もその中に入っているのだし…などと余計なことを考えながら、札幌の”かでる2・7”大ホールに入ってみると――なんとほぼ満席のお客さん。やっぱり主婦層が多いかも。なかなか人気があるではないか。知らなかった。そもそも通常の劇場公開映画でもないのに、これだけシリーズが続いているということは、それだけ多くの支持もあるということのようだ。


 ただ、見た結果は…複雑だ。映画の内容ひとつひとつには、ある意味何も文句はない。映像も音も限りなく美しい。だが、見終わった時の僕の感想を一言に煮詰めると、「これ、今、感動してていいんだろうか?」ということ、それに尽きる。

 ラヴィ・シャンカールと、その娘が出てくる。釧路湿原の風に鳴る弓の演奏(奈良裕之:なら・ゆうじ)、三原山の火口で吹くデジェリドゥ(KNOB:ノブ)、熊野の那智大滝のそばで奏でる笛(雲竜:うんりゅう)、サヌカイトと同系の楽器だろうか石版を叩く演奏(長屋和哉:ながや・かずや)、これらの音楽の悪かろうはずもない。いや、素晴らしいとさえ思う。(奈良裕之さんは上映終了後、弓=スピリット・キャッチャーの生演奏をしてくれた。実際、心の洗われるような音色だった。)

 海洋生物学者ロジャー・ペインが海底で録音したという、鯨の歌声も、なんとも言えない感動(一体、郷愁なのか何なのか?)を喚起する。とても不思議な”音楽”だった。

 ケリー・ヨストのピアノは、僕は特に何も感じなかったが、とても落ち着いた音には違いないし、好きな人も多いのだそうだし、自分の好みでなくとも嫌な音楽では全くないし。彼女の言う、”自己表現など考えず、自分自身が音楽を鳴り響かせる通り道になりたい”というような、いくぶん東洋的な考え方も面白くはあった。

 こんな風に、それぞれの要素は皆それぞれに豊かな内容で、実にぜいたくな時間を過ごせる映画だと思う。日常の喧騒に追われて生きている我々は、そう簡単に静寂の漂う自然の中に行くことはできないし、ましてやそこでゆったりとした時間を過ごすことなど、至難のわざだ。この映画をじっくり見るだけでも、そう――”癒し”の時間を過ごせるのかもしれない。

 それはそれでいいのかもしれない。おいしいものを食べたり、ぜいたくな時間を過ごしたり、人生を楽しむことに、さすがに横からケチなど付けたくはない。
 ただ、正直なところ、映画のメニューがぜいたくであればあるほど、僕の気持ちはだんだんに捻じ曲がって行かざるを得なかった。なんだか居心地が悪かったのだ。

 僕の感じたことはこうだ。
 この映画は美しい大事なものを見てはいる。だが、地球(ガイア?)の全体を視野に入れているとは言えない。エンタメは否定しないし、美しいものや楽しいものは人生でたしかに重要だ。でも、だったら、ガイア(地球)とか人類とか言うなよ――というのが僕の<気分>だ。(気分という言葉を使ったのは、この言い方にも自己矛盾を含んでいるからなのだ。)

 地球でもガイアでも人類でも環境でも、言葉は何でもいいけれど、もしも全体性という概念を持ち出すのであれば、(たしかに地球は美しいのかもしれないが)美しくない現実が露骨に同時多発的に世界中で進行しているいる現実を、無視するのはおかしい。正確には今地球上では、限りなく美しいことと限りなく美しくないことの、両方が存在していると言うほかない。
 貧困、戦争、エイズ…並べるだけで耳にタコができそうなほど、世界レベルの問題は山積している。「地球交響楽」は環境には関心があるようだが、他の問題群との深い結びつきはここで語るまでもあるまい。環境だけ良くする、なんてことは不可能だ。

 皮肉に聞こえるだろうか。ただ…なんと言うのかな、僕だって少しはぜいたくな時間を過ごしたいけれど、それは自分の周りにささやかにも何とか囲いを作って成り立つものであって、たとえ「後ろめたい」とつぶやいたところで欺瞞性が消えるわけでもないが、そういう矛盾の中で生きているという意識だけはある。

 だから、この映画はまるで、大きなガラス窓に張り付いたホームレス集団の目の前で贅沢な食事を食べているような、妙な居心地の悪さを感じさせたのだ。――いや、それならまだマシだ。現実が見えている。
 地球にはこんな美しい場所、こんな美しい響きがある。と言いながら、景色を見ているその視野からは見えない場所、欠落した部分、視野欠損の向こうには何があるのか。いや、この視野には欠落がある、と、意識さえされていないのではないか。そんな疑いすら持ってしまったのだ。

 脳の損傷で、半側失認という症状が起こることがある。その患者さんは、体のどちらか半分が不自由だという事実<そのもの>を意識できなかったり、時計の絵を描かせても文字盤半分だけの奇妙な時計を描いているのに、その<欠落に気づく能力>自体を失っている。彼には世界の半分が失われているのだが、自分がそうなっているという<事実を知る力が侵されている>ので、気づくことができない。彼の中では、世界の半分はないことになっている。むしろそのまま状態で、彼にとって世界は完全なのだ。

 ファンも多い映画だろうから、こう書くと批判されるかも知れないが、この6章を見る限り、監督を含めた製作者集団は、”ガイア”を見る視野に大きな欠損がある。そして、その欠損があることに気づけない、失認すらあるのでないか――という(少なくとも)疑いを持たざるを得ない。
 あるいはこうも言える。仮に製作者は自らの視野欠損をちゃんと意識できているとしても、観客にはその欠損が意識されていない可能性がある。意図的に観客を失認に導いたわけではなくとも、結果としてそうなっている可能性はないか。(ある、と僕は思う。)

 ドキュメンタリーは、見えない物事を見せるのではなく、見せることで他を見えなくさせる、と某ドキュメンタリストは言っていた。その通りだと思う。

 おりしもこの映画の札幌上映日は、防衛庁が省に昇格する法案が衆議院を通った日だった。心を平安にしてガイアに思いを馳せながら、人類の平和な未来を思い描くとても善良な人々が、何百人も一同に会して、日本の、東アジアの軍事状況に全く無関心という絵柄がそこにはあった、などというと皮肉が過ぎるだろうか。祈りはあっても行動はなく事実はひたすら反対の方向に積み上げられて行くだけ。ふー。

 まあ自分もそこに居たのだけれども。弓の演奏は最高だったのだけれども。映像も音楽も美しかったのだけれども。…。…。…。


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コメント


地球交響曲第6番を観て、

私も同じような感想を持ちました。
ゴアの「不都合な真実」のように非常に具合的な事実を突きつけれらたあとには、この映画に酔っていていいのかという気持ちになっています。

>行徳のマグマ大使さま
せめて「矛盾」を自覚していたいものですよね。コメントありがとうございました。

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