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●「香田証生さんはなぜ殺されたのか」下川裕治著

 香田証生さんは、日本からニュージーランド、イスラエル、ヨルダン、と旅をした。そしてイラクに入国し、テロリストに拉致・殺害された。外側のおおまかな事実は、TVやネットを通して、日本に居た我々も知ってはいる。だが、事実の詳細や、香田さんの内面に何があったのかは、あまりに情報が少なく推測すら困難だ。いや、事件当時激しいバッシングが吹き荒れる中、ほとんどの日本人が彼のことについて、自ら積極的に掘り下げるのを放棄した、と言ったほうが正確ではないだろうか。その結果の、無視・無関心・切り捨て、あるいはさらなる非難。いずれにしても表面的な反応でしかなかった。大手の報道も同じく。そしてテロリストの要求した自衛隊撤退への賛否も伴って、「軽はずみ」な若者が「皆に迷惑」をかけたという、いわゆる“自己責任論”の巨大な嵐が吹き荒れた。当時の空気を、僕は苦々しい気持ちで思い出す。何かが完全におかしかった。そして今もおかしいままだ。
 たしかに香田さんの判断の甘さは議論の余地がないにしても、「愛国心、愛国心」と常日頃口にするような連中こそが、率先して同じ国籍の若者を見捨てるこの国。その、本来のたちの悪さをまざまざと見てしまった気がしたのだ。重大な事態が起きたとき、しかも情報が不足してあらゆる可能性を想定するしかないとき、いくつかの感情を留保しながら現実的な判断を下していく、そんな冷静な議論は知る限りほとんど聞かれなかった。
 著者の下川氏も、たぶん割り切れない思いを残した少数派の一人なのだろう。彼は、旅人、それも貧乏バックパッカーの立場から香田さんの旅をトレースしはじめる。香田さんの出身地から滞在先を順次回り、会える人に会って聞ける話を聞いて歩く。バックパッカー向けの著書を多数持つ下川氏は、旅行者の好奇心のあり方や、世代による感性の違いなどにも触れ、香田さんの感じたこと・考えたことを推測していく。貧乏旅行の裏も表も熟知した、著者に示唆されることはいろいろと多い。
 特に日本で、多くの人が口を開きたがらなかったという事実(!)。語学を学びながら長期滞在したニュージーランドに漂う、ある種ぬるま湯の中のような焦燥感。紛争地帯の中の、作られた平和と言うしかないイスラエルの矛盾。そして、したたかに生きるヨルダンの街の喧騒。イラクまでは、あとほんの気持ちひとつだけの距離だ。著者自身もイラク国内に入るか否か、ぎりぎりまで迷ったようだが(強引に行動すれば入れてしまう――だって、どんなに危険な国であっても、そこに人は住んでいるのだ!)、その葛藤が香田さんの心理とも重なるように思われた。そもそも旅行には、偶然的・突発的要素が多く伴う。それが旅の好奇心なのだ。
 軽率な行動を弁護する気持ちはないが、人から好奇心が失われていいものだろうか、とも思う。世界のことを知りたいという気持ちを持ったり、がんじがらめの日常から逃避したいと、一瞬思う気持ちは間違いと言えるのか。添乗員付きのパックツアーでもないかぎり、旅ではほとんど常に、たった一人で事態を切り開かざるを得ない。それが旅なのだし、その代わりに、一人で在ることの自由、視線にさらされない自由があるとも言える。著者は、日本国内ではニートや引きこもりと呼ばれそうな生活をしている者たちが、タイなどの安宿で長期滞在する姿を、“外こもり“と呼び、自身の体験とも重ねて解説している。そうなってしまう背景と心理は、個々の旅行者ごとにたしかにあるのだろう。だが、日本人が意識せずとも持っている、いわゆる「同調圧力」というのか、スタンダードにハマる事を強要する空気というのか、そんなものも作用しているような気がしてならない。「同調せよ、さもなくばバッシング」、みたいな短絡思考の回路が、余裕ない日本人の頭の奥深くにすでに長く埋め込まれているような気がする。いずれにせよ、旅をする者の心理と、生まれた土地での生き様とは、どこかに不可視の接点を持っている。そこから見えてくるのは、旅人の側の欠如や問題ばかりではない。日本という国の歪みも、時には見えてくる。
 さて、ここまでこの本の(筆者に)共感できる部分を紹介したが、欠点も多いと思っている。読了後の感想は正直、「もの足りない」、だった。さすがにイラク国内への侵入取材は行なわなかったとはいえ、どうして拉致から殺害までの最後の数日間を詳細に考察しなかったのか。小泉首相の発言、外務省の動き、現地大使館の動き等は、資料である程度はトレースできるはずだ。その時々刻々で、アラブ世界がどう反応したのか(しなかったのか)、現場に近い土地でこそ感じられることがもっとあるように思える。この点、もう少し詰めて欲しかった。
 また、この手法の限界もおのずと批判されなければならない側面を、最初から持っている。旅経験の豊富な著者の推測は、たしかに一定の説得力はあるが、そうだとしても結局は、著者の主観でしかないという点だ。この限界がもっと意識されていれば、考察・分析の対象は、バッシング現象が起きてしまう日本の国情や、その中で口をつぐまざるを得ない周囲の人々の心理にも、もっと向かって良いような気がする。“外こもり”の描写で出てきた、旅人と故郷との関係は、もう少し掘り下げられても良かったのであるまいか。
 本書には、日本大使館の日本人旅行者への対応も少し描かれている。企業の仕事で外国に居る日本人と、貧乏旅行者では明らかに対応が違うという話は、筆者もあちこちで聞いたことがある。日本の官僚は、どうもそのように日本人を(区別して)捉えているらしいし、極論を言えば、国の方針に従う勤勉な日本人と、それ以外という、まるでかつての“国民”vs“非国民”にも似た図式が、確固とした枠組みとなって我々の思考回路の中にあると考えた方が良さそうだ。それが結局のところ官民一丸の“自己責任論”となって噴出した、と考えるのは分かりやすすぎて怖い。
 だが一度、このような事件から“国籍”という概念を外して観察してみてはいかがだろう。ふつうの若者が、どこかの街で暴力的に連れ去られ殺されそうになっているとする。もちろんほとんどの人には、何もできないし、どこの馬の骨か分からぬ者に、さほど同情するほど暇もないかも知れない。だが、「さっさと死ね!」とあえて宣言する必要があるだろうか?それこそ、奇妙に余計な論理ではないだろうか。日本人は、彼の国籍が日本だからこそ、嬉々としてバッシングしたのである。このような国民性(の一部)を、筆者は愛す気になれない。宗教家でも何でもない筆者であるから、すべての人を愛せだの何だの言うつもりは毛頭ないが、ただ直感的に、そのような品性を好む気になれない。
 日本人は、イワンの馬鹿や、阿Qのレベルに居るとしか思えない。
 書評を越えて、個人的な考えを書いてしまった。が、本書の著者の、割り切れないものを追いかけてみようという問題意識には、大いに共感するものである。今の日本全体に横たわる思考することへの極端な怠慢は、ひたすら物事のディーテイルを追ってみるという行為でのみ立ち向かえるのかも知れない。
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