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●ユッキーの個人ツアー6日目・被害と加害

 広島に居ると、通りすがりの旅人の身であるせいなのかも知れないが、やはり、「この街で原爆が炸裂したのだな」という一念が、脳裏から消えることがない。
ドーム


 もちろん、平和記念館を見ればたとえ観光客であっても、誰もがつらく悲しい気持ちになるだろうし、原爆ドームは市内の繁華街のほど近い場所にあり、市電の主要ルートもそこを通るので、必ず目にすることになるから、それが記憶を呼び覚ますということもあるだろう。

 とはいえ、言うまでもなく、景色にも人々の営みにも、他の地方都市と決定的に異なるような翳はとうに無い。そういう意味では、全く素晴らしく復興しているのではあるが。

 だが、お年寄りを見かけると、「この人はどんな戦争体験をしたのかな」と、つい考えてしまう。

 思い返してみれば、父も母も昭和一桁生まれで、もちろん軍国教育の元で育ち、終戦のときは中学生か高校生くらいだったはずなのだが、彼らの当時の生活域が東北から札幌にかけてだったので、大きな戦争被害には遭っていない。機関車が機銃掃射された”人がいる”という父の話や、戦後の食糧難の話などは多少聴いたけれども、総じて、北海道の人は(室蘭など一部を覗いて)空襲などの具体的な恐怖に出会っていない人がほとんどだろう。
 父も母も、もちろんそれなりの戦争体験はあるが、戦争の傷、というような出来事を抱えていた風ではなかった。友人知人には居たかもしれないが。
 父は終戦時18歳なので、徴兵が危なかったかもしれないが、物流の担当(機関士)だったから、原則的に参戦しているのと同等にみなされていたらしい。そういう意味でも、前線に送られる危機感は低かったと、父自身語っていた。

 原爆投下の候補地としても札幌が最終的には外されたと聞くが、それも爆撃機の飛行距離の関係などかららしい。北海道は圧倒的に被害が少なかったのだ。

 だが、ここ広島ではそうではないだろう。戦艦大和を作った呉市(後にその工場は原子炉を作る工場になる)が近隣にあるし、どうやら広島もけっこう軍事的に重要な都市だったらしいから、一定以上の年齢の人を見かけると、ふとその人の戦争体験を想像してしまう。

 なによりこの街には川がたくさんあり、当然たくさんある橋を渡るたびに、戦争ドキュメントなどで知った、修羅場の様相――人々が川に逃げ込んだと言う――が、なんとなく目の前の風景と重なってしまう。
広島の川と市電


 いや、やっぱりこれは、初めてこの街に来た旅人の感覚なのだろう。住んでいる人には日常があり、そんなことばかり考えていられるほど、暇なはずはない。だが、そうだとしても…この街の上空に巨大な火の玉が炸裂したイメージが常に意識され、なんだか想像の街と網膜に映る街とが、常に二重に重なっているような感覚に陥る。

 この街の人は、ゆったりして人が良く、ファッションもおしゃれではあるが競うように尖ってはおらず、そういうところが札幌と似ている。東京からの微妙な距離が、きっと似ているのだろう。都会だが田舎の要素も残っているところが好ましい。でもだからこそ、ああこういう普通の街であんな出来事が起こったんだと、自分に重ねて考えてしまう。

 物好きに輪をかけて、大久野島というところにある、毒ガス資料館を訪ねてみた。広島から、JRを乗り継いで2時間強、さらに船で15分。瀬戸内海の多くの島の中の一つ、行ってみると実に風光明媚なところだ。現在は休暇村という保養施設があるようだ。
大久野島(毒ガス島)


 島には昔から兎がたくさん生息していて、しかも現在はその保護のために、自家用車は禁止となっている。だからそこらじゅうに、わらわらと兎が散らばっており、ほとんど人を恐れない。写真を撮ろうとじっと構えていると、二匹のうさぎが側まで近寄ってきたのには驚いた。餌でもねだっているのだろうか、ただ兎はなんとなく目の合わない動物のような気がして、何を思っているのか感情が分からなかった。
兎2


 戦時中この島には、毒ガス製造プラントが置かれ、何千人もの人が働いていたらしい。ただ、軍が工場を置いたときも、地元は雇用が増えるため単純に喜びはしたものの、一体何を作る工場なのかは全く知らされなかったようだ。そこで働く人たちも、当時の製造工程のことだから、手作業の部分は多く、ずいぶん科学物質の被害に遭ったようだ。
 日本軍の毒ガス使用は、戦後アメリカ側が極秘扱いとしたため(おそらく自国の武器開発にノウハウを転用したのであろう)、その全体像は未だ解明されていないと聞く。しかし、主に中国大陸での戦闘で実際に用いられ、現在も遺棄された毒ガス兵器が時々中国で人的被害を及ぼしていることは知られている。その毒ガス兵器はおそらくこの島で作られたものなのだ。
毒ガス資料館

 資料館には、製造プラントの機器の一部や、ガスマスクなど当時の作業服や、工場内の様子を写した写真などが展示されていた。ごく小さな博物館だったが、ビデオ鑑賞室もあり、中身は濃い。日本の加害者側の事実を保存し伝えるという意味で、けっこう見ごたえのある場所だと思う。館内には、フセインに毒ガス兵器で殺戮されたクルド人の写真も展示してあり、この兵器が過去の問題になっていないことも示唆されている。

 資料館を出て島を歩くと、「こんな自然の豊かな場所で…」という気持ちになってくる。瀬戸内海の風景も美しく、風も気持ちよく、兎はのほほんとしている。国中が狂気に飲み込まれていたんだろうかと、考えてみたり。今度来る時があれば、一泊して自然を味わってから帰りたいと思った。

 大久野島からの帰りは、わざとにローカルな呉線で帰る。鈍行で一駅一駅進むと、どこもひなびた良い街や集落である。暗くなってしまって良く見えなかったが、呉はやはり大きな町だった。きっと昔はここを海軍の兵隊が胸張って闊歩してたんだろうなぁ。軍事化された瀬戸内海…か。

 被害の歴史も、加害の歴史も、降り積み重なったまま掘り起こされるのを待っている。隠された事実はまだまだあるのでないか。などと思いながら夜のローカル線は、なかなか広島に着かない。
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